もし、私の愛する家族が殺されたら




「あなたの愛する家族が殺されても、それでもあなたは死刑廃止と言えますか?」

最愛の一人娘の命を奪われた被害者遺族・磯谷富美子さんが放った言葉。先日参加したシンポジウム以降、私はずっと、この言葉の意味を考えていた。(※前回のブログを参照されたい)

冒頭の言葉を、何度も自分に言い聞かせて、自問を重ねた。
自身の固持していた意見を捻じ曲げられたような感覚に捉われ、死刑制度に対する積み上げてきた思いを一気に崩されたような、地底に追いやられる思いだった。

磯谷さんは、裁判が終わってもなお無期懲役者2名の被告に死刑を求めている。それは当たり前の感情だと声をあげていた。その憎しみに満ちた表情が、今でも脳裏に鮮明に映る。

遺族にとって事件は今もこれからも終わることはない。終わらせられないこと。「愛する人を奪われ、その苦悩を一生背負ってゆく人生を送るのは、自分で終わりにしてほしい」と世間からの忘却を懸念する遺族は多いだろう。磯谷さんの場合は、事件と遠い人間に向けて警鐘を鳴らしている。「自分で終わりにしてほしい」と、二度と繰り返してはいけないと願う気持ちを、どこまで具現化していけるのだろう。犯罪被害者等基本法など、遺族に対するケアは法律として少しずつ形づくられてはいる。けれども、磯谷さんに続いて発言されたご遺族の方々の言葉を聞くと、そうした法律の運用は、まだ支援の仕組みとして十分ではないのでは、と首をかしげてしまう。

遺族の方々をこれほどまでに苦しめてきた根底にあるものは何だろう。貴い命を奪った“人殺し”は、どんな顔をしているのだろう。その“人殺し”はどこから来て、どこへ向かおうとしていたのだろう。

そう考えを巡らせていた一方で、ふと思ったことがある。世論の怒りの矛先が、その“人殺し”一直線である、ということを。

私自身、同情という感情に乗っかって、その流れに心を任せようとしていた。人々が遺族の絶望と憎悪に同情した時、その憎しみが『排除』への一方通行をつくり上げる。
同情や共感を善悪を決める物差しにしてしまっては、本質を見極められない。あらゆる判断を鈍くさせる。

人殺しに対して正義をもって死を突きつけることが正解だとしても、人が人を殺める制度があっていいはずがない。それを合法的に行なうのだから愚の骨頂に他ならない。

天国に逝った人を呼び戻すことは不可能で、そんなことはわかっている。家族を奪われ、癒えない傷と一生を共にする人生を、誰にも歩ませないようにするならば、命を選別する発想にこそ終止符を打つべきだ。それは被害者やその遺族をこれ以上増やさない社会にするための唯一の手段だ。

この声は、小さな声として消されてゆくのだろうか。

 

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